オリジナル長編小説
なるかな 



 3月某日今日も晴れ。雪は溶けて、冬は役目を終えて去っていき、春は仕事を思い出したかのように、四季をつないでいく。
 そんな穏やかでうららかな日和の昼食後のささやかな昼休みにもかかわらず、今日も僕、楠村楓は、当たり前のように保健室にいて、文庫本を読みながらお茶をすすり、怠惰な保健医の変わりにその任に就いていた。
 今日はまだ来訪者が0で、いつもならそれなりに活気があるこの保健室も閑古鳥が鳴いている。いつもならお茶をすすりながら雑談に付き合ってくれるだろう保健医は、
「今日は用事があるから、保健室を頼む」
と書置きを残し、しっかり仕事も残して行方をくらませていた。
実に迷惑な話だ。
 もちろんやる義理など蚤程にも無い。0といってもいい。
 本当は目もくれたくない、意味不明な記号の羅列が表記されている書類たちは、目を通されることなくそのうち焼却炉で産業廃棄物にでもなるのだろう。
 そのように手配したので確実だ。
 後は神のみぞ知る。
 ここの保健医、名目上出張となっているはずである。それは真っ平なうそで、あの男の真実の履歴書には、特技の欄にしっかりと大きく「職権乱用」と書いてあるはずだ。
 仮に書いていなくても書き足してやりたい。
 そんなことをやり続けていて、学校側に今までばれてなかったところがあの男らしい。
「ん?」
 湯飲みのお茶を飲み干したことに気づき、自前のポットからお湯を急須に注ぎ、少し蒸らしてから、湯飲みに移す。
 自分で入れたお茶は、いつも味気ない気がするのは僕の気のせいかと思いつつ熱いお茶をちびちびと口へと運んでいった。
「確かここに……あった」
 勝手に引き出しの奥から、保健医秘蔵の茶菓子を一個くすねておく。
 曰くかなりの高級品でなかなか手に入らないらしいが、これくらいやっておかないと、とてもじゃないけど割に合わない。
 ちなみにどこでも売っていそうな大量生産ちっくな味がする。
 しかし、あまりにも自分を取り巻くこの状況が理不尽な気がするのは僕の気のせいだろうか。
 僕はこの薬品のにおいや医学書、プライバシーというやつを考慮したベッド、明らかに似つかわしくない最新鋭のPC機器たちが置いてある、来訪者も主人もいない保健室を見渡した。
 やっぱり理不尽だ。一人で海の真只中を漂流している気分に鬱になる。ここに自分が身をやつしていると考えるだけで腹が立つ。
 ふと壁にかけてあったカレンダーに視線を動かした。
「思い返せば、初めてこの学校に来たのも今日だったな」
 そう一年前のこの日、僕は受験でこの学校にやってきていた。
 ここは私立なので、独自の受験用問題を作成していたと記憶している。確かそれなりに難しかった。
 今年の受験日は明日。今日は昼休み終了後、LHRをやった後に準備のために学校は終わる。ここの生徒たちは思いがけずやってくるこの休みに、浮き足立っていた。僕もその一人だったりする。
 こんな日に悩みを持っている人間は、ごく少数じゃないだろうか。そんな今日の良き日が今の状況に拍車をかけていることに間違いはなかった。
「あ〜あとりあえずかなり暇だ。理不尽だ。不条理だ。」
 とりあえず読み終わった文庫本を投げつけることで、今の自分の心境を表現してみた。我ながらグッドテイスト。
 文庫本は、初めて飛ぶことを覚えた雛鳥のようにバラバラとページをバタつかせながら、きれいな放物線を描き華麗舞って
 がらっと、扉が開く音。
「あぅ〜?」
 放物線の終着、入ってきた一人の少女の額にジャストミート。もしビデオに収めていたなら、僕は迷わず某テレビ局に投稿していた。
 いい感じに音が保健室中に響き渡っている。
 しかも角。おいしいこと限りない。
「うわぁ大丈夫!?」
 なんて破綻した考えを捨てて現実に戻ってきた。正気に戻って、さすがにあせった。かなりあせった。まさか入ってくるとは思わなかったし、女の子だし、傷物にしてしまったら人生が痛い。
 そして、やっぱり角は痛い。指に画鋲以上タンスに小指未満ぐらい痛い。つまりはけっこう痛い。
「っ・・・・・・!!!!」
 どうやら痛くて声も出ないらしい。しかも学校の制服じゃなくて私服の姿つまりは一般人。珍しい。
「ねぇ大丈夫?」
 僕は少女の近づいていって、今もなおあまりの痛さにへたりこんでいる彼女の目線にあわせてしゃがんだ。
「!!!」
 彼女は明らかに拒絶の意思をはらんだ瞳で僕を見上げた。
 僕は思わずためらい、立っているともしゃがんでいるとも言えない、実に中途半端で情けない格好のまま硬直する。
 そして、今になって自分の犯した罪の重さを実感する。僕は大馬鹿だ。
 けど、そんな悲嘆にくれている場合じゃない。少女のおでこは、けっこう赤くなっている。急いで備え付けの冷蔵庫のほうへ向かった。多分僕の歴史上、上から数えて五本指に入るぐらい早かっただろう。
 ひんやりとする冷凍室から手ごろな氷をいくつか取り出して、手馴れた感じで氷嚢を作り終えて少女のいるほうは戻っときには
「あれ!?」
少女の姿はそこには無かった。
 これは責任を取らなくていいんだね。
 とりあえずドスッと精神的な肩の荷をおろしてみた。
 こればかりはかなり間違っているだろう?と僕の良心は訴えかけた。
 僕は良心に同意して、再び責任という荷を方に背負い、保健室を飛び出して左右の確認をしにいくが、もうすでに少女の姿は影も形も見あたらない。
 人に訊きたくても誰もいない。
 ここに女の子が入ってきて、僕の投げた文庫本が頭にぶつかって、涙目になって最後には逃げ出したことなどはじめから無かったのかのように。
 でも僕の手は、確かに氷嚢をつかんでいるし、心にわだかまる罪悪感もある。さっきの状況を一寸もたがわずに思い出して、笑うことだって出来る。
「ふっ・・・・・・」
 とりあえず笑ってみた。だからといって女の子が帰ってくるわけではないし、これじゃあ僕は変な人だ。
 とにかく、一般人だから校舎のほうにはあまり行かないはずだ。僕は一番近くにある渡り廊下へと向かった。
 まだ少し肌寒い風が僕のほうへ吹き付けてきた。
「ビンゴ!!」
 普段は硬く閉ざされている渡り廊下の扉が、開かれている。あれは人が開けないことには絶対に開かない扉だ。
 僕は急いで飛び出した。そして、周囲に眼を配る。
 すぐに、ほんのわずかな時間だったけど、見たことがある服を見つけた。
 女の子は確かにいた。けどかなり遠くにいて、逃げるように走っている。
 かなりの罪悪感。
 とりあえず心の底から謝りたかった。
「まっ・・・・・・」
 静止の声は最後まで紡がれない。そこに突風が吹いたからだ。たまらず目を閉じる。
 次に目を開けたとき、そのとき本当に僕は、彼女の姿を見失った。
 吹き付ける風はまだ強くて、冷たくて、そして痛くて僕は再び眼を閉じた。とてもじゃないが探すことは出来なかった。
 完全に風が止んだとき、そこに立っているのは僕だけ。
「風と共に去りぬ……か」
 そうつぶやいた時、昼休みの終わりを告げる予鈴が校内に響き渡る。春の匂いが一段と濃くなっていた様に感じた。
 彼女さっきまでいたほうを一瞥して、僕はきびすを返して校舎のほうへ歩いていった。


 教室に戻ると、予鈴がなりもうすぐホームルームが始まるというのに、騒がしいこと限りない。ドア越しでも相当うるさかったのだが、戸を開けたとき、髪が後ろになびき、体が仰け反り、背後の窓がみしみしと軋むさまは、さながら人口密度が東京並に高い密室のロックハウスを思い出させた。
 まぁ逆を言ってしまうと、このホームルームが終われば、僕たちは晴れて学校という名の付いた監獄から釈放されるのだ。騒がしくなるのも仕方がなかったりする。僕もはじめからこの場にいればそれなりに騒がしくなっていたはずだ。
 それでも度というものはあると思うが……
 この学校はある意味おおらか過ぎる。いやこのクラスか。
 教室では、今日この後の行動を話し合ったり、明日の待ち合わせを決めたりするもの。明日の予定を考えるものが後を絶たない。それぞれの思惑を胸に抱き、今日の半日と明日の丸々一日の休みをこの学校の生徒は享受するのだ。
 とりあえず、その場に立っているのもなんなので自分の席に座ることにする。もうすでに鼓膜が破れそうな音にも感覚が慣れてしまった。別の意味では麻痺したとも言う。
「さて僕も明日は何しようかな・・・・・・」
 読みかけの本を読むのも、前々から欲しかったCDを買いに行くのもいいかもしれない。しかし、どうせその日の気分で決まるのだ。今さら教室の雰囲気に飲まれて、予定を考える必要もないだろう。
 それにさっきからこの教室の音響の5分の1ぐらいを一人で担っている隣の奴がうるさくて考え事に集中できない。
「よう楓ちゃん。浮かない顔しているな。どうした、言ってみろ」
「ああ。お前があまりにもうるさいから、頭痛がしてきたんだ」
 隣の席の人間であり、曰く「楠村楓の唯一無二の親友」とおっしゃる左衛門三郎紀孝之という、うざいぐらいに、名前の長い人間である。ちなみに「左衛門三郎」が苗字で「紀孝之」が名前である。
 平仮名で書くと『さえもんざぶろう のりたかゆき』
 これはまたうざいな。
 名前も長いが背も高い。ついでにやかましい。これでそれなりに運動も勉強もこなすのが、常識人なのだが、変な性格が災いし女性は極端にこいつを避けるようになっている。
 まぁ自業自得なのであえて同情はしない。
 にしても、実際さっきの少女のことがあったので、少し沈んでいたのは事実だ。さすがは自称親友。それとも適当だったのか?
 しかし、さっきの事故をそんなこと扱いするのは気が引けたが、それよりも僕はある言葉に敏感に反応した。
  「その楓ちゃんって呼ぶの、やめてくれない?そのうち刺されるよ、僕に」
 僕はさらにげんなりした。「楓ちゃん」はネックというよりトラウマに近い気がする。
 身長は平均よりもやや低め、けっこう童顔、どちらかというと女性的がわに偏る中性的な顔立ち、そして偏見だろうか、名前が女性チックな「楓」。
 男性にはうらやましいと思われ、女性には可愛がられる。こんな自分にかなり嫌気が差している。ある時期は死のうと刹那的に思ったこともある。すぐにあきらめたが。
「そんな怖い事言うな、楓。俺とお前の仲じゃないか」
 ちなみに僕は、お前を親友だと思ったことは一度もないよ。断じてないね。神に誓ってもいいさ。
「そういえば、楓は今日も保健室か?」
「ん。そうだよ。誰も来ないし保健医はいないし、暇なこと限りなかったよ」
 ただ私服の女の子が来たことは心の中だけにとどめておく。あれはまるで、泡沫の夢の様なものだったから。それでも異様にリアルだったのは確かだけど。
「にしてもお前も物好きだよな。わざわざ人の悩みを聞いてあげるために、保健室に常駐しているんだもんな。俺にゃあまねできないね」
 お前がカウンセリングなんてやっていたら、世の中は迷い人であふれかえっているよ。人には得手不得手があるが、ここまで会わない人間も珍しいと思う。
 はっきり言おう。お前に人の話を受け入れて聞き入る才能はない!!
「・・・・・・・・・」
 どうやら思ったことがつい口から出たらしい、紀孝之はさっきから黙ってしまった。これは悪いことをした。ニュートリノの大きさぐらいの罪悪感。
「・・・まぁいいさ。それって親の影響か?」
 その単純な精神構造は賞賛に値するさ。今度は口に出なかった。
「まぁね。父親の影響もあると思うけど」
 父親はまた違う分野なので、100%父親の影響ではないのだけど。
「そこでだ!!最近俺にも悩みがあるんだ。ぜひ俺の相談に乗ってほしい」
「は?」
 まず僕は、我が耳とお前の口を疑った。紀孝之は返事も聞かずにこっちのほうに体を寄せてくる。何かいつもと雰囲気が違っている。どうやらギャグではないらしい。
 つーか体をそんなに寄せるな。気持ち悪い。
 にしても、年中無休棺桶入るまで悩みなど持たないまま天に召されそうなこの男が、果たして悩みを持つのか。はっきり言ってそっちの方が悩みどころだ。
「ひどいことを言うな。俺にだって悩みの一つや二つ。はたまた三つくらい持っているぜ」
 そう言って、ビシッと親指を立てる。
 はっきり言って威張るところでもないし、胸を張るところでもない。
「はいはい、聞いてあげるから。んで、悩みは何なの?」
「・・・・・・・・・」
 なぜそこで悩む。しかし、いっこうに口を開く気配がない。
 何でこんなことになったのだろうか。この教室に帰ってきてからの自分の行動を一から回想し始めてみることにした。

 5分経過

 そして、こうなった原因は、こいつと出会ったことだということに遡り、晩御飯を何にしようか考えて、明日は部屋の掃除をしようと誓い、明後日提出の宿題かったるいなぁと思いながら、来週の特番の特集を忘れていたことに気づいた後、相変わらす爆音を奏でるこの教室が周囲に与える影響を検証して、うちのホームルーム担任遅いなぁと嘆いていたころ、奴はやっと口を開いた。
 それはもうミミズが道路を横断するのを観察して、最後に干からびる様をみているぐらいもどかしく、緩慢な動作だった。決心つかないなら相談するな。
 そう思っていた矢先
「実は俺の○○が・・・・・・不調なんだ・・・・・・」
 究極の爆弾発言だ。幸いこのクラスで聞いているやつはいない。しかし、僕の理性は、先ほどの鬱状態を加速装置にして、スイッチポンで極限まで上った本能によって呆気なくかき消された。
 今なら漫画のように、背景を黒にして「ギ・ギ・ギ」という擬音をたてながら、眼を妖しく輝かせ、ねっとりと、それでいて刺すような殺気を撒き散らし、このおろかな人間を抹殺することなど、簡単なように思えてきたぞ。
「・・・・ぁぅ・・・」
 紀孝之は口をパクパクさせて、獣と化した僕に何かを訴えかける。僕に今聞く耳はない。
 常識など今から約30秒前に捨てたわ!!大人しく死ね。
「待て、話せばわかる。俺はまだ結論しか言ってない。過程を聞け。過程を聞けば納得してくれるはずだ。お前ならわかってくれる。だから、まずその物騒な煙を吐きながら、熱く滾っていそうな拳を振り上げるな!!」
 やっと口をあけることが出来た紀孝之にたいして、「嫌だね」。本能はそういった。僕は怪しげな煙を吐きながら、熱く滾る拳を気が付けば振るっていた。
「げばぁ!?」
 擬音であらわせば「どげふぅ」実際には硬そうな生ものをつぶした時のような音がして、某漫画のようなおかしな断末魔をあげ、紀孝之は宙に舞った。
 それは先刻投げた文庫本のようにすばらしい放物線を描き、教室右斜め後ろの掃除用具入れのロッカーに激突した。
 教室の轟音にかき消されて、聞いているものは誰もいない。
 仮に気づいていても止める者はいなかっただろう。このようなクラスだ。お祭り騒ぎは日常茶飯事。喧嘩上等。
「おい大丈夫か?」
 僕はすっかり晴れ晴れした顔で紀孝之を介抱する。
「生きているか?」
 薄く眼を開いて、虫の息で紀孝之は
「ふふふ元気でたかい?」
といった。
 こいつは僕のためにあんな演技をしたのだろうか。
 っいうかこいつは、こんなに気が利くようなやつだっただろうか?
「お前ってやつは・・・・・・」
 なんだか急に目頭が熱くなったような・・・・・・なんて思っただけ。
「ほらうるさいぞ!!そこ席に着く。悪いな、ちょっと生徒の指導に当たっていたら遅れてしまった」
 禁断のパンドラな部屋を開けて入ってきたのは、このクラスの担任の華ちゃんだ。
 その瞬間、国会議員選挙の演説よりもうるさい教室一瞬のうちに静まり返った。流石は元ヤンキー。纏っているオーラが違うね。
 こちらから見ると華ちゃんの指導は、脅しと同義語になってしまうのは言うまでもない。
 うちの学校の暗黙の了解の一つだ。
 ヤンキー母校に帰るってよく言ったものだと思う。
「おい楠村、早く席に着け」
「はい」
 二つ返事で僕は自分の席に向かった。その場から離れた刹那、ゴンと言う魂を揺さぶるほどの大きな音がしたが、僕は気にせず席に着いた。
「楠村、お前の隣のやつはどうした?」
「後ろの方で静かになっています」
 おそらくエクトプラズムを入れたり出しているかもしれないその光景は、霊感のある人間が見れば大爆笑間違いないだろう。
 僕に霊感がないことがとても悔やまれるよ。
 良かったじゃないか、お前は最後に大輪の花を咲かせたぞ。ただし、どす黒いような血染めの華だ。
  「ん?そうか」
 華ちゃんは、倒れている紀孝之を一瞥して、そのまま明日の話を始めた。
 憐れなり紀孝之。お前の頭上には北斗七星に寄り添うように死兆星が輝いている。
「その・・・・・・なんだ、明日は休み。明後日はいつも通り。事故非行は起こさないこと。ただでさえ受験生の面接と監督官で出勤しなくてはならないのに、お前たちの尻拭いなんて面倒だ。遊ぶなとは言ってないが、学生という本分を忘れず、慎ましく過ごせ。まぁ私がそんなこと言っても説得力がないけどな」
「はい。俺もそう思います」
 復活の馬鹿。よりによってそこを突っ込むな。
 刹那紀孝之は、チョークを額にめり込ませ、再び一時的にこの世を去った。
 触らぬ神にたたりなし。
「その言ってみたかっただけだ。気にするな。先ほども言ったように警察沙汰だけにはなるなよ」
 ごくごく普通の先生が言う台詞だが、華ちゃんが言うと、その言葉の意味が何十にも重なって聞こえてくるのは、僕だけではないはずだ。口に出すやつは、そこで死んでいる馬鹿以外には絶対いないだろう。
 だれも母なる地球の懐には、還りたくないはずだ。
「はい解散。いい休みを過ごせよ・・・・・・ああもう!!うらやましいなぁ」
 激しく戸を開閉。華ちゃんは教室を出て行った。まだホームルームの時間は残っているのに・・・・・・
 

 チャイムが鳴った。
 わらわらと通学かばんを持ち上げ、思い思いに帰宅していくクラスメイト。
 うちクラスのいい加減な担任のいい加減なフライングのおかげで、このクラスの生徒は教室を出られないでいた。
 何せほかのクラスではまだHRをやっているのだ。ここで飛び出そうものなら、中間管理職なのにいつも暇をしている巡回中の教頭に、学生の本分やらありがたい道徳の教え、現代社会の倫理などをわざわざ生徒指導室まで連行し、あまつさえお茶を出しながら長々と、最後には学生時代の武勇伝をその催眠音波で流しつつける拷問を味あわされてしまう。
 そして、先刻チョークをめり込ませた例の阿呆は、阿呆なりに思考を張り巡らせた結果、教室を飛び出すという愚考を犯し、見事に生徒指導室へと旅立っていった。
「じゃあね楓ちゃん」
「楓ちゃん、また明後日ね」
 クラスの女子たちが笑顔で僕に手を振り、帰っていく。
「さようなら」
 僕も笑顔で彼女たちを見送り、心の奥底では盛大に溜息をついた。だから僕を「ちゃん」付けで呼ぶな。
「さて僕も行こうかな」
 僕は席を立って、一応保健室に向かうことにした。
 さすがに本気で産廃にすると保健医が騒ぎそうだ。
 まずは焼却炉に拠ることにしよう。燃えてないけどいいのだけど。